京の都では、貴族による集団暴行や弱い者いじめが日常的に行なわれていました。
王朝貴族は暴力に親しんでいた――と主張するのが本書『殴り合う貴族』です。
のっけから「雲の上の人」とされる殿上人たちが、老人をよってたかって足蹴にしていたというショッキングなエピソードが紹介されています。
やんごとない貴公子たちは、蹴鞠ではなく蹴老人に興じていたのでした。
暴力事件が記されているのは小野宮右大臣・藤原実資の日記『小右記』です。
同じ時代を生きた藤原道長ファミリーの悪行もつまびらかにしています。
ゴーマンかます藤原道長
「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」
どこにも欠けたところのな満月のように、この世はすべておれのものだ!
こう詠じた五十三歳の藤原道長は、まぎれもなく、王朝貴族社会の覇者であった。
「この世をば」の一首を詠んだときの道長は、天皇の祖父であるとともに、皇太子の祖父でもあり、さらには、それまでの三代の天皇の后たちの父親であるとともに、現在の摂政の父親でもあった。
しかも、道長自身、太皇后・皇太后・皇后に准じた待遇を受ける「准三宮」という地位にあったのである。
貴族社会で道長の思い通りにならなかったものはなかったでしょう。
道長が娘・彰子の教育係として紫式部を抜擢し、『源氏物語』の執筆を支援したことはよく知られています。
教育や文学に関心がある反面、人としての思いやりは「かけたるもの」だったようですが。
道長による監禁・襲撃事件
この時代、親のコネを使わずに出世するためには官人試験で良い成績を収めるしかありませんでした。
そこで道長は、贔屓の受験者の成績を改ざんするため、試験官を拉致・監禁して圧力をかけました。
妻の外出をうまく段取りできなかったという理由で、自宅の小屋に貴族を監禁したこともあります。
道長の暴力は貴族だけでなく庶民にも向けられました。
長和2(1013)年の6月、祇園御霊会に参列していた散楽人が道長の従者に襲撃されます。
実資の日記によればこれも道長の命令だったそうです。
何が気に入らないのか、庶民が楽しみにしている祭りを台無しにしました。
従者を手にかけた藤原兼隆(道長の甥)
道長の甥・藤原兼隆は自分の従者を殴ってあの世送りにしています。
そこまでの暴力を加えた理由はわかりません。
この時代、公卿さまが使用人をあやめることは問題にならなかったようです。
実資も兼隆の被害者だった
ある時、実資の下女と兼隆の下女が井戸の使用を巡ってケンカをしました。
下女から聞いた兼隆は、実資の下女が所有地を不法占拠しているとイチャモンをつけ、家屋を破壊。衣服を掠奪します。
しかし、これは兼隆の勘違い。土地は実資のものでした。
事情を理解した兼隆は態度を急変させ、実資に平謝り。
「すべて弁償するからチャラにしてほしい」という旨の書状を送ってきます。
ふざけるなと言いたいところですが、騒ぎが大きくなれば叔父の道長に泣きつくのは目に見えているので、実資も諦めるしかなかったようです。
息子のケンカで泣く
従者の命を虫けらくらいにしか思っていない兼隆も、息子の暴力事件になると話は違いました。
治安元年(1021)の12月24日、御仏名の最中に兼隆の息子、藤原兼房と源経定が取っ組み合いのケンカをしました。
兼房が経定の被り物を叩き落としたことが発端です。
(貴族にとって被り物を取られるのは、パンツ一枚にされるくらいの屈辱でした)
マウントを取ったのは兼房。
一方的に殴られる息子を案じた経定の父・源道方は、藤原能信に泣きつきます。
能信は頭に血が上っている二人の肩を笏で打ち、両者を引き離して騒動を収めました。
父親の兼隆・道方は思わず泣いてしまったそうです。
ちょっと待て。道方が泣くのはわかるが、兼隆は泣いている場合じゃないだろう。
婦女暴行に手を貸す藤原能信(道長の息子)
颯爽とあらわれて兼房と経定のケンカを仲裁した能信。じつは彼もかなり屈折していました。
長和5年(1016)の5月、学者の大江至孝が観峯という僧侶の娘を手篭めにしようとました。
ところが観峯の弟子に返り討ちにされ、捕まってしまいます。
至孝の救援要請をうけ、藤原能信は何人かの従者を観峯の家に派遣しました。
このとき能信の従者の一人が、観峯の弟子に刺されて犠牲になっています。
しかも能信が婦女暴行犯に手を貸して従者を死なせたのは、これが初めてではありません。
祭りを見物している貴族を牛車から引きずり下ろす
長和2年(1013)の3月30日、「臨時祭」の見物に訪れた能信は、大勢の人が見ている前で、貴族たちを牛車から引きずり下ろしました。
恐れて牛車から出てこない者には石をぶつけました。
貴族たちは能信の近くで見物する許可を求めただけなのに……。
壮絶な兄弟ゲンカ
異母弟の教通とケンカして屋敷を破壊された時は、報復として教通の厩舎人長に凄まじい虐待を加えました。
その後、厩舎人長がどうなったのかは書かれていません。
土地を巡るケンカだったようですが、この兄弟の因縁は根深いものがあります。
能信の母も教通の母も名門の娘には変わりないのに、道長は教通の母・倫子が生んだ子だけを贔屓しました。
腹違いの兄弟が出世していくのを見て、能信はダークサイドに堕ちていったのでしょう。
悔しさはわかりますが、行動がサイコパスっぽくて怖いです。
皇女殺害事件
さすがの貴族たちも皇族絡みのスキャンダルとなると口を噤みます。
万寿元年(1024)の12月に花山法皇の皇女が盗賊に殺害されました。
その遺体は無残にも犬に食い荒らされていたそうです。
ただし、被害者が皇女だったことや、遺体の惨状は事件の表層にすぎません。
皇女の出生とその真犯人こそが、貴族社会のタブーでした。
実資の『小右記』にさえ主犯の名前は書かれていないんですよね。
イギリス王室の闇として握りつぶされた「切り裂きジャック事件」を彷彿とさせます。
これまでの暴力事件が前座に思えてくるほど救いようがない話でした。
ここでは詳細を省きますが、ゲス不倫で騒いでいる人が聞いたら卒倒するような内容です。
やんごとない暴力表現
- 濫水(らんすい)/相手をひどく罵ること
- 拏攫(だかく)/取っ組み合いのケンカ
- 凌轢(りょうれき)/一方的に暴行を加える
- 打ち凌じる(うちりょうじる)/一方的に殴る
- 召し籠める(めしこめる)/拉致・監禁
- 闘乱/殴り合い
「濫水」は水が氾濫するように悪口が出てくる、という意味でしょうか。貴族らしい詩的な表現ですね。
「召し籠める」も酷いことをしているわりに優雅です。
「凌轢」「打ち凌じる」はどちらも一方的に暴行するという意味ですが、 凌轢は馬乗りになってボコボコにする、くらいハードな状況のように思えます。
光源氏は紫式部の理想
京の都はいつ・どこで乱闘が起きでもおかしくないほど物騒だったに違いありません。
貴族は天皇の御前でも大人げなく殴り合っていました。
貴族社会の手本となるべき道長たちがゴロツキ同然なので、治安も悪かったでしょうね。
暴力とは無縁、恋に生きる光源氏は、紫式部が作り上げた理想の貴公子でした。
光源氏のモデルについては諸説ありますが、役職以外はかすりもしない思ったほうがよさそうです。