2月25日は菅原道真の祥月命日です。
学問の神様として信仰され、道真が祀られている天満宮は受験シーズンになると、合格祈願に訪れる学生で大賑わいです。
その一方、冤罪により非業の死を遂げた道真は、祟りをなす怨霊としてたいへん恐れられました。
天皇に認められて出世コースに乗る
幼い頃から優秀だった道真は、本来政治家にはなれない文人貴族(学者)にもかかわらず、宇多天皇の引き立てで異例の出世を果たしました。
宇多天皇が藤原基経に関白を命じる勅書を発給した時のこと。
基経が「阿衡」という言葉にケチをつけたことで歴史的な事件(阿衡の紛議)に発展しました。
この時、道真が仲裁して解決にこぎつけます。
基経亡き後、藤原一族に不満があった宇多天皇は、藤原氏を閉め出すために文人貴族を積極的に登用し、自ら政治を行いました。
ブレーンとして天皇を支えていたのは、他ならぬ菅原道真です。
異例の大抜擢
897年、法皇となった宇多天皇に代わり、醍醐天皇が践祚(皇位継承)します。(いま話題の「生前譲位」ですね)
醍醐天皇は法皇の操り人形ではなく、自らも政治を行っていました。
天皇をサポートしたのは左大臣・藤原時平と右大臣・菅原の道真です。
899年、道真はついに右大臣に昇りつめます。
学者が大臣になったのは宇野真備以来の快挙。133年ぶり、日本史上2回目です。
時平の陰謀
それを見た左大臣・藤原時平が黙ってるはずがありません。時平は宇多天皇と因縁のある基経の息子です。
嫉妬もありますが、融通が利かない道真の性格も気に入らなかったようです。
901年、時平を中心とした藤原氏と反道真の文人貴族のグループは、道真を陥れるための策を考えました。
道真の娘が宇多天皇の皇子に嫁いでいることに目をつけ、醍醐天皇の座を狙っているという話をでっち上げたのです。
醍醐天皇はこの話を真に受け、道真を大宰府に左遷しました。
謀反の汚名を着せられた道真は、宇多上皇に無実を訴えます。
上皇は左遷阻止のために禁裏御所に出向きますが、藤原菅根に門を閉じられてしまいました。
2年後、道真は失意のうちに亡くなったと伝えられています。
怨霊・道真の逆襲
道真が怨霊として恐れられたのは、冤罪づくりに加担した人物が次々と死んでいったからです。
その数たるや、リングの貞子顔負けです。
908年 道真を裏切った藤原菅根が死亡
909年 道真の仇・藤原時平が病死
913年 道真の後任・源光が事故死
923年 時平の妹が産んだ皇太子・保明親王が薨去
930年 道真の左遷にかかわった5人が落雷で死亡
現場を目撃した醍醐天皇が崩御
落雷事故から道真のイメージは怨霊から天神(雷の神様)に変わっていきました。
雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と言いますよね。
この言葉は、道真の屋敷があった桑原にだけ雷が落ちなかったことに由来します。雷除けのおまじないとして定着したようです。
怨霊なんて迷信だと笑うかもしれません。
しかし、怨霊は存在します。生きている人間の心に。
道真を苦しめたという自覚があるから、恐れもする。
なんでも自己責任で片付ける現代人のほうが怖いかもしれませんね。
道真と御霊信仰
おそろしい力を持った怨霊も、神様として祀れば人間のために力を貸してくれるという考え、それが御霊信仰です。
のちに道真の左遷宣命は破棄。復官・贈位されました。天満宮(太宰府・北野)のほか、京都の上御霊神社にも道真の御霊が祀られています。
冤罪が晴れて神社に祀られて、いまは学問の神様として活躍しているわけですね。
頭は良いけれど生きることには不器用だった道真。
私にとっては「いくら優秀でも根回しと駆け引きが苦手だと人生詰む」と教えてくれた人でもあります。