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知らないほうが幸せ?!本当は夢も希望もない映画『ラストエンペラー』の愛新覚羅溥儀

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低予算映画ばかり見ていたので、たまにはお金がかかっている映画を見てみようと思い、大作映画の『ラストエンペラー』を見ました。映画としてはたいへん評価が高いのですが、史実とは違うという否定的な意見もあります。

 

後にも先にも一度の人生で三度皇帝になって三度退位し、戦犯になって平民になった人は溥儀だけです。

 

映画で見てよくわからなかった部分はドラマや本で補完しましたが、知れば知るほど皇帝の、いや溥儀の人生しんどい。周りの人もしんどい。なんて救いがないんだと思いました。溥儀は日本の近代史と切っても切り離せない人物でもあるので日本人として心が痛む部分もあります。

 

映画のイメージを壊されたくない方はここから先を読まないほうがいいかもしれません。

 

中国ドラマ版全28話と溥儀の晩年を描いた香港映画の『火龍』を見て溥儀・溥傑・嵯峨浩の自伝、ジョンストンの『紫禁城の黄昏』、溥儀の評伝なども読んでなるべくWikipediaにない話も入れる工夫はしておりますが、中国語がわからないので2007年に出版された『我的前半生』の完全版の内容はわかりません。申し訳ない。

中国での溥儀の扱い

 

映画の溥儀は過酷な運命に翻弄されながら、最後に自由を手にすることができました。やっと自分の人生を取り戻した溥儀を見て観客は感動に包まれます。苦労が多かった自分の人生に重ねわせる人もいるでしょう。

 

同じ時期に作られた中国ドラマでは「漢奸(日本でいうところの国賊)だったけど中国共産党の教育を受けて更生しましたっ☆」という描かれ方です。中国共産党の寛大さに涙しながら贖罪の日々を送らなければいけないのです。いつも何かに怯えていてダサい、そんなキャラでした。

 

『ラストエンペラー』はよく欧米目線の映画だといわれますが、セリフが全編英語という点だけでなく、溥儀の描き方そのものが欧米的です。これは中国人でも日本人でもないベルトリッチ監督だからこそ作れた映画でした。

 

映画の邪魔になるであろう溥儀の特異な性格(常人には共感できない部分)はかなり薄めてあるので何を考えているのかわからない人になっているのが難点ですが、それも映像の美しさと坂本龍一の音楽でかなりカバーされているので「いい映画を見た」という満足感はあります。

清王朝のラスボス・西太后


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叔父にあたる光緒帝の後を継ぎ、溥儀は3歳で皇帝に即位しました。西太后のもとへ連れてこられた溥儀はギャン泣きして西太后からもらった菓子を投げ捨てたといいます。

 

映画では豪華なセットと衣装の効果もあってラスボスと呼ぶにふさわしい迫力です。

 

西太后役のリサ・ルーはリー・ハンシャン監督の『傾国傾城』でも西太后を演じている女優さん。『傾国~』ではギラギラした西太后でしたが、『ラストエンペラー』の西太后は得体の知れない恐ろしさがあります。

 

クーデターを起こして光緒帝を幽閉しておきながら、皇帝が亡くなったことをまるで他人事のような口ぶりで言う西太后。早逝した光緒帝は西太后に毒を盛られたという説もあります。あの微笑みは何を意味しているのでしょう。

 

「old buddha」は西太后の敬称の一つ「老仏爺(ラオファイエ)」の英語訳ですが「老」には「尊い」という意味が含まれているのでoldとはちょっと違います。老や爺はイケてる呼び名で皇帝たちも好んで使っていたようです。

 

息を引き取った西太后の口に黒い玉を入れるシーンはじつに不気味。西太后の治世を象徴するようなこの玉は後述する東稜事件で盗まれることになります。

 

父母の顔は忘れてしまっても、西太后がおそろしかったという記憶は溥儀のなかに強烈に刻まれていました。

 

『ラストエンペラー』屈指の名シーンである溥儀の即位式はこの映画のスケールの大きさを物語っています。西太后の喪中のため楽団の演奏などはなかったのですが、かえって厳かな雰囲気を感じられるほどです。

 

即位式でも溥儀は玉座の上でギャン泣きしたといいます。困った父親の載灃が「すぐ終わる」と溥儀を宥めたことが清朝の終わりを予言しているようだと不吉がられました。

 

もっとも西太后が亡くなった時点で清は終わったも同然だったのですが……。

気弱な父・醇親王載灃

幼い溥儀の摂政となった父・載灃は優しい人でしたが気が弱く、政治に向いていませんでした。

 

光緒帝を裏切り西太后に寝返った袁世凱を処刑せよという空気のなか、袁世凱を推す他の親王との板挟みなどで弱腰になり、とりあえず足の怪我を理由に袁を引退させることにします。

 

養生するふりをしながら機会をうかがっていた袁世凱は辛亥革命で政権に復帰。反乱軍を鎮圧するはずが革命運動の中心人物である孫文と手を組み、またもや皇帝を裏切りました。

 

どう考えても信用しちゃいけない奴に仕事を任せてしまったことが原因ですが、イギリスに負け、日本にも負け、外国の力を借りなければ太平天国の乱を鎮圧できないほどオワコン状態だった清は、嫌でも袁世凱に頼らざるを得ない状況でした。

 

醇親王も危機感を覚えて軍権を握ろうとしてはいましたが、気持ちはあっても能力がないのは明らかです。

 

溥儀が6歳で退位すると「現状維持が第一」という事なかれ主義の父親になりました。

溥儀はラストエンペラーになるはずじゃなかった?

光緒帝の後継者は端郡王載漪の息子・溥儁になるはずでした。

 

西太后に推されて紫禁城に入り、皇帝になるための教育を受けていましたが、父・載漪が義和団の乱の責任を取らされて追放されると溥儁も皇太子の資格を失いました。溥儁はやさぐれて阿片と放蕩に耽り、職も財産も失って最後は寝たきり状態で亡くなりました。

 

溥儀は収容所で自分を皇帝にした西太后を恨みましたが、ラストエンペラーじゃないほうの人生も悲劇的でした。

 

醇親王家は溥儀の祖父・奕譞が西太后のライバルである粛順を捕まえたことで大出世しました。奕譞の息子・載湉が子どものいない同治帝の跡を継いで光緒帝となりました。

 

戊戌の変法で光緒帝と対立した西太后は醇親王家を嫌うようになり、この時点では溥儀が選ばれる可能性はありませんでしたが、目論見が外れたので溥儀にお鉢が回ってきたというのが本当のところです。広い中国でだた一人、とんでもない確率で皇帝ガチャを引き当てたのでした。

母親の死

溥儀は光緒帝の養子になる形で帝位を継いだので、先帝の未亡人たちが義理の母親になりました。「孝」を重んじる中国では皇帝といえども彼女たちに敬意を払わなければなりません。

 

宮廷を仕切っていた隆裕皇太后亡き後は端康太妃が権力を持ち、ことあるごとに溥儀に干渉するようになります。

 

流行の服や民国将軍の衣装を買ってきて溥儀の機嫌を取っていた宦官は端康の逆鱗に触れて板打ちの刑にされた後、監獄に送られました。

 

溥儀の実母の瓜爾佳氏は端康と懇意にしていましたが、母親面して干渉してくる端康を溥儀が罵ったことで責められ、溥儀を謝罪させました。プライドを傷つけられた彼女は抗議のために阿片を飲んで自決したと言われています。

 

貴婦人たちは子供のことより面子を守ることに命がけ。溥儀が眼鏡をかけることになった時も反対した端康が致死量の阿片を飲むかもしれない、という騒動になりました。

最愛の女性アーモ

 

溥儀にとって唯一の「母親」は自分を育ててくれた乳母のアーモでした。劇中ではアーモが特別な女性であることを「She is my butterfly」と表現しています。

 

オリジナル全長版では、貧しい生まれのアーモが乳母の仕事に就くため醇親王府で面接を受ける回想シーンが追加されています。

 

溥儀の自伝『わが半生』によれば、宦官に残酷ないたずらをする溥儀を窘め、人の心を教えてくれる人はアーモだけだったといいます。満州国時代には宮廷から追い出されたアーモを探し出してまた一緒に暮らしました。

 

溥傑の妻・嵯峨浩の自伝『流転の王妃』にはアーモと思しき溥儀の老乳母が通化事件の犠牲になったことが書かれています。人の命が今よりずっと軽く扱われていた時代、乳の出が悪くなるという理由で我が子が亡くなったことさえ知らされなかった彼女の人生も悲しいものでした。

優待条件は誰のため

よくわからないうちに皇帝になってよくわからないうちに退位させられた溥儀は、その後も紫禁城で変わらない生活をしていました。共和国の「優待条件」により、宣統帝の一代に限り皇帝の尊称が保護されることになったからでした。

 

成長するにつれて溥儀はそんな自分の立場に疑問を感じるようになります。ロマノフ王朝もフランス王家も最後は王が処刑されたというのに、王朝が滅びても皇帝のゾンビをやっている自分は何なのか。

 

やがて優待条件が清と共和国の間で交わされた取り引きであったことや、皇帝が存在しなければ既得権益を失ってしまう人たちがいることに気づきます。紫禁城で働く役人や宦官・女官の給料は言うまでもなく、太妃たちが宮廷から追い出されもせず優雅に暮らせるのは皇帝のおかげでした。

 

最初は共和制が根付くかどうかわからない状況でもあったので、溥儀が復辟する可能性もまだありました(要するにベンチ要員)。大人の事情で若く貴重な時間を奪われた溥儀がイライラするのも無理はないのでした。

 

映画では省略されていますが、三国志の張飛気取りの辮髪将軍・張勲が溥儀を復辟させるという珍事もありました。この時はわずか十三日で退位しています。

西洋文化への憧れ

 

退位したとはいえ復辟する可能性があった溥儀は、皇帝にふさわしい人物になるための教育を受けました。『紫禁城の黄昏』を書いた英国人のジョンストンは溥儀の英語の先生です。

 

最初は乗り気でなかったという溥儀ですが、中国文化に詳しいジョンストンの知識に感心し、西洋文化にも憧れを抱くようになります。

 

真面目に英語の勉強していたのは最初だけで、いつの間にかジョンストンの授業は「西洋文化講座」になっていきました。というわけで肝心の英語力はルー大柴レベルの怪しいものだったようです。

 

自転車という新しい玩具を手に入れた溥儀は、紫禁城内の邪魔な敷居をすべて切ってしまいました。なにもかも時代遅れな紫禁城でしたが期せずしてバリアフリー化。時代を先取りしたのでした。

 

溥儀はただ西洋人ごっこを楽しんでいただけではなく、紫禁城を出て留学するという計画を立てていました。しかし何者かの密告により皇帝の脱出計画は失敗に終わります。

「皇帝の勉強相手」というお仕事

皇族の子弟は皇帝の勉強相手という仕事に任命されることがありました。溥儀の勉強相手に選ばれたのは溥傑・毓崇・溥佳の三人。

 

仕事なので当然報酬も支払われます。お金をもらって勉強できるなんて美味しいアルバイトのように思えるのですが、皇帝の代わりに叱られるのも彼らの仕事です。

 

突っ込みづらいゲストがボケた時に後輩芸人を殴るビートたけしと同じ要領で、勉強しなかったり態度が悪かったりする溥儀の身代わりとして罰を受けるのでした。

 

自分が真面目に勉強しようがしまいが関係なし。同じ学生でも溥傑は皇帝の弟なので叱られず毓崇が集中砲火を受けるなど労働環境はブラックでした。

 

映画でも紫禁城にやって来た溥傑が溥儀と一緒に勉強するシーンがあります。ここでは黄色が皇帝専用の色であること、溥儀が皇帝ではなくなり袁世凱が大総統になったことなどが駆け足で説明されています。

 

辛亥革命後は紫禁城の中にも溥儀が立ち入れない場所がありました。即位式が行われた太和殿などいくつかの建物は共和国に接収されています。映画では接収されたエリアに袁世凱が車で乗り入れたところを溥儀と溥傑が塀の向こうから覗いている、という描き方をしているようです。

 

こんな感じのところだった

ところで天子様は英語以外に何を勉強していたのでしょうか。溥儀の話によれば数学などは教わらず、ひたすら古典の勉強をさせられていたそうです(数学は町人がやるものとされ、科挙の試験問題にも出ませんでした)。

 

一方で宦官(清では太監)は字が読めなくても計算は教わるという謎の教育方針でした。

暴力・薬物・窃盗・賭博……なんでもありの紫禁城

腐敗しまくりの清朝末期。飢饉などで共和国から年金が満額支払われることはなく財政難続きの宮廷は財宝を売り払って赤字を補填していました。その際、売った額よりも少なく帳簿に記載して残りを自分の懐に入れるのが役人のやり方でした。

 

宦官にはペンネームのような「宦官ネーム」があり、欠員が出ると新しい宦官がその名前を買って受け継ぐ方式だったようですが、欠員が出てもそのままにして二人分の給料を貰っている宦官もいました。

 

内職をする宦官などは可愛いもので、商魂たくましい者は賭博で儲けたり、宮廷の地下に阿片窟を作って稼いだりしていたようです。

 

宮廷にはもはや宦官の制服を支給する余裕もなくなり、宦官たちの自腹購入で凌いでいました。ただでさえ収入が減っているうえに盗まれているので金が無いのは当然です。

 

よくわからないけどものすごい大金が出ていく、ということに気づいた溥儀は帳簿の照合を行うことにしました。すると宝物殿を含む建物が謎の出火で消失するという事件が発生。

 

証拠を隠滅するために誰かが火を付けたものと思われましたが、自分が直前まで映画を見ていた建福宮が出火元だと知った溥儀は「宦官に暗殺される!」と怯え、普段はほったらかしにしている皇后の婉容に一晩中寝室の見張りをさせました。日常的に宦官を虐待している溥儀は仕返しされることが何より怖かったのです。

 

映画では近代化のためにかっこ良く宦官を追放した溥儀ですが、実際のところ宦官たちは溥儀のビビリな性格によって追放されたようなものでした。

 

宮廷内の性的堕落も深刻な問題でした。溥儀は恋が何かも知れないうちに宦官や女官が入り乱れる『サテュリコン』みたいな世界を経験して歪んでしまったようです。

溥儀の性格

 

幼い頃から龍だ天子だと崇められ、自分が特別な存在であることを繰り返し刷り込まれてきた溥儀の価値観は「自分以外はすべて下僕」。

 

溥傑も弟である前に臣下であり、妻はアクセサリーでした。

 

映画では皇帝の権威を示すために溥儀が宦官に墨汁を飲ませて見せましたが、溥儀が気晴らしに宦官を虐待することは日常茶飯事です。

 

ジョンストンは『紫禁城の黄昏』のなかで溥儀には二面性があると言っています。

 

些細なことで激怒したかと思えば無礼を働いた宦官を面白がって逆に取り立てたりしました。気前よく寄付したり動物を可愛がったりする優しい面もあり、(映画でも溥儀の象徴として登場する)コオロギを飼っていました。冗談を言って周りを笑わせるおちゃめなところもあります。

 

命を狙われる皇帝の職業病なのか、たびたび被害妄想に取り憑かれて周りの人間に難癖をつけました。相手が望むことを察知してカメレオンのように言動を変えるのは、利用されるばかりの人生で身につけた処世術だったのでしょう(東京裁判ではソ連の意に沿い、すべて日本に強制されたことだと嘘をつきました)。最も辛かったという満州国皇帝時代は一層情緒不安定になり、スピリチュアルに傾倒していきました。

 

当時、宦官への体罰は当たり前のように行われていました。主人の皇帝や太妃だけでなく、宦官から宦官への体罰もあり、宦官同士の喧嘩もありました。

 

宦官も宦官で問題があるとはいえ、何でも世話してもらっていて横暴がすぎるように感じますが、清朝滅亡後は彼らに仕事を与えるために皇帝が存在していたようなものですから、何もさせてもらえなかったというほうが正しいのです。

 

トイレもお風呂も一人ではさせてもらえず、プライバシーは全くありません。宦官を人間だと思っていたら耐えらない状況だったことも考慮しておく必要があります。

 

それとは別に『わが半生』で白状した溥儀の行いにはアブノーマルな傾向がありました。本気なのか冗談なのか、溥儀に拳銃で頭をブチ抜かれそうになったという宦官の孫耀庭も本気でヤバい皇帝の行いについては語ろうとしませんでした。

 

溥儀には同情する気が失せるようなクズエピソードも少なくありませんが、長年抑圧され精神的に追い詰められていたことを考えると、これが本当の姿といえるかどうかはわかりません。過酷な境遇によって歪められてしまった部分も間違いなくあるでしょう。いずれにせよ溥儀ほど波乱万丈な人生を送った人はいないので我々には判断のしようがないです。

 

『ラストエンペラー』の溥儀は、超絶美形のジョン・ローンが自分なりの解釈で演じたことで悲しみを湛えた魅力的な主人公になりました。

 

コオロギは溥儀のメタファーでしたが、脂ぎって黒光りする別の虫を連想しないこともありません。やたら生命力が強いところとポマードでテカテカした頭がよく似ていると思うのですが、さすがに皇帝に対して失礼だと思うので控えます。

5人の妻たち

映画に登場する妻は婉容と文繍の2人ですが、溥儀は生涯で5回結婚しています。

 

皇后の文繍は溥儀に顧みられることなく阿片中毒で亡くなり、逃亡した側室の文繍は皇帝相手に裁判を起こして離婚しました。

 

復辟にしか興味がなかったという言葉は誤魔化しで、溥儀には王鳳池というセフ……お気に入りの宦官がいました。映画のセリフにもあるように溥儀が阿片を嫌っていたことは本当ですが、婉容が阿片中毒であってもなくても最初から仮面夫婦だったことには変わりありません。自由を求めて溥儀と離婚した文繍も最後は餓死のような状態で亡くなり、幸せではありませんでした。

 

3人目の譚玉齢は若くして病死。溥儀は東京裁判で吉岡に殺されたと言いましたが、日本の医師が玉齢を診察した時はすでに手の施しようがない状態でした。

 

4人目の李玉琴は満州国崩壊後に溥儀の妻だったことで一家ともども迫害され、戦犯収容所で面会した溥儀に離婚を迫りました。

 

溥儀にとってはじめての恋愛結婚となるのが釈放後に出会った最後の妻・李淑賢です。夫婦仲が良かったと伝えられていますが、生活能力のない溥儀が妻からしょっちゅう馬鹿と罵られ、捨てられそうになる不安に耐えていたことや、介護レベルで世話を必要とする溥儀と結婚した妻の苦労は知られていません。

 

弟の溥傑夫婦は政略結婚でありながら相思相愛で知られていますが、溥傑の妻・嵯峨浩には封建主義的な女性だったという批判もあります。皇帝の弟であっても低い地位しか与えられなかった溥傑が妻に負い目を感じていた(忖度してた)とすると、ただの純愛では片付けられないものがあります。

 

身分を気にする浩が溥儀と庶民の女性(李淑賢)との結婚を歓迎せず、兄弟の不仲を招いたとも言われています。

東稜事件と異民族支配

溥儀が描いた盗掘犯・孫殿英処刑の図。意外と絵が上手い。

 

優待条件で清の陵墓は保護されているはずが、国民党軍の兵士によって墓が爆破され、副葬品が盗まれる事件がありました。溥儀は激しく抗議しましたが、犯人の処罰はうやむやにされました。漢民族に不信感を抱いた溥儀はこの事件から急速に日本と親密になっていきます。

 

東稜事件に関して清は被害者ですが、大清帝国は少数派の満州族が大多数の漢民族を制圧して建てた「異民族支配の国」でした。同じ大陸に住んでいても《支配される側》の漢民族と《支配する側》の満州族は言葉も習俗もまるで違う民族なのでした。

 

清は善政を敷いた王朝でしたが、明から清に変わる時には清軍による漢民族の大規模虐殺がありました。清の黒歴史であるこの虐殺を記録した『揚州十日記』は清朝時代、持っているだけで死罪になる禁書でした。辛亥革命以降は清への敵愾心を高めるために使われたといいます。

 

生粋の満州族は初代皇帝ヌルハチと息子のホン・タイジくらいで子孫は漢民族と同化していき、溥儀にいたっては満州語すら話せませんでしたが、漢民族は満州族に侵略された恨みを忘れてはいないはずです。

 

とはいえ、国民もそれなりに皇帝に敬意を持っていたようです。ただ日本の天皇のように国民の心の拠り所になっていたとは言えない、微妙な立場です。

 

軍閥による権力闘争で清朝時代よりも苦しい生活を強いられた国民は、皇帝の復帰を望んでいました。それは混乱を制圧できる強いリーダーを求めていたということであって、溥儀たち清の皇族が思っているほど神聖な存在であったかどうかは謎です。

 

とくに後期の腐敗した清に反感を持っていた人は少なくないと思われます。そう考えると東稜事件で蒋介石が国民からボコされなくても不思議ではないのですね(中国の方が皇帝をどう思っているのか実際に聞いたわけではないので、この辺は私の憶測です)。

暗黒の満州国時代

軍閥のいざこざで紫禁城を追われた溥儀は、逃亡先の日本租界で復辟の機会をうかがっていました。

 

溥儀の人生のなかでは自由があった時期ですが、復辟をエサにした詐欺師に騙されて大金を巻き上げられたり、家賃が払えないほど経済的に困窮したりとそれなりにピンチ。

 

新しい国家(満州国)の話が持ち上がり、日本の後ろ盾で復辟できるらしいと思った溥儀は満州へ渡りました。紫禁城にいた頃は何もさせてもらえずに腐っていましたが、大清帝国復興のため今度こそ心を入れ替えて立派な皇帝になるつもりでした。

 

ところが日満親善を謳う満州国の実態は日本の植民地であり、溥儀は関東軍の傀儡皇帝でしかなかったのです。日本の直接支配では現地の反発が強いと考えた関東軍は、皇帝が治める独立国家であるという体裁をとったのでした。溥儀は言われるまま公文書にサインするだけ。バイトよりも権限がないみたいな皇帝でした。

 

以前より厳しい監視と制限を受けることになった溥儀は不満を爆発させ、手のつけられない暴君になっていました。人情家アピールのために引き取った孤児まで殴っていたので、もうどうしようもないです。この頃は痔が悪化して機嫌も悪かったようです。

 

満州国ではせっせと阿片を製造して販売。731部隊が人体実験を行いました。吉野家のシャ〇漬け戦略が失笑を買いましたが、満州国では冗談ではなくガチでした。

 

収容所で記録映像を見ている溥儀がスクリーンに映し出された自分を見て立ち上がるシーンがありますが、関東軍がしたこと、自分がその片棒を担いでいたことを知り、罪と向き合う決意をするという重要な場面になっています。

 

映画では坂本龍一が演じる甘粕正彦が存在感のある悪役でしたが、不思議なことに溥儀たちの自伝にはほとんど出てきません。

 

全員が示し合わせたようにdisってるのは帝室御用掛(日本との窓口役)の吉岡安直。温厚な溥傑でさえ不遜な態度だったと厳しく批判していますが、吉岡一人にそれほどの権限があったとも思えず、他の軍人より距離が近いせいもあって「日本にムカついたらとりあえず吉岡のせいにしておけばいい」的な扱いだったようです。

 

溥儀も溥儀で「建国神廟にアマテラスを祀る」と突然物議を醸すようなことを言い出したりするので吉岡も手を焼いていたと思われます。自分の意見が天皇に聞き入れられるか知りたかったようですが、日本側にそれを伝えるのは溥儀ではなく吉岡ですから、胃が痛くなるようなこともたくさんあったでしょう。

 

関東軍には不信感を募らせていた溥儀ですが、天皇に対してだけは特別な感情を抱いていました。

 

1935年と1940年の二度の来日では天皇家にあたたかく迎えられ、家族の愛を知らずに育った溥儀は涙を流したと言われています。国民の尊敬を一身に集める天皇の姿は溥儀の理想そのものでした。

 

日本の敗戦とともに満州国は解体。溥儀は自分の頬を何度も平手打ちして先祖に懺悔しました。そして父のように慕っていた天皇から一言の言葉もかけてもらえなかったことに深く傷つきます。

 

東京裁判の偽証にはソ連への忖度だけではなく、日本に見捨てられた溥儀の悲しみが滲んでいたのかもしれません。

捕虜から戦犯へ

溥儀は日本に亡命するつもりでしたが、満州国を占領していたソ連に捕まってしまいます。

 

変わり身の早い溥儀は日本を見限り、ハバロフスクの収容所からスターリンに宛ててソ連共産党へ入党したいという手紙を書き、ものの見事に無視されました。本国に引き渡されたら処刑されると思い込んでいた溥儀は藁にもすがる思いでした。

 

その後、恐れていた中国への引き渡しの日が来ます。撫順戦犯管理所に移送された溥儀一行はそこで想像もしなかった待遇を受けることになりました。

 

処刑されるどころか戦犯への虐待行為などは一切なく、きわめて人道的に扱われました。職員のなかには戦争で身内を失った人もいましたが、個人的な感情は表に出さず、根気強く戦犯たちの再教育につとめました。

 

溥儀は管理所ではじめて自分が何もできない人間であることを知ります。ボタンを留めることも、靴紐を結ぶことも、服をたたむこともできません。紙箱作りの作業でも失敗ばかりで笑い物される有様でした。

 

あまりの生活能力のなさに絶望した溥儀は自分を皇帝にした西太后を恨みましたが、その後の頑張りが認められて特赦第一号に選ばれます。とくに溥儀が自己批判的な内容も含まれている自伝を書いたことが評価されました。

 

共産党の再教育が成功したかどうかは本人以外知る由もありませんが、気の小さい溥儀を改造することは可能だと毛沢東は考えていたようです。溥儀の境遇に同情的だった周恩来とは違い、毛沢東にとって溥儀は党のイメージアップのための大事な広告塔なのでした。

平民になった皇帝

 

溥儀は北京植物園で庭師の仕事に就き、半日働いた後は共産党の記者・李文達とともに自伝の改定作業をするという生活をしていました。翌年には全国政治協商会議の分史資料研究委員会専門研究員になります。

 

自伝の改定作業は困難を極めました。共産党のフィードバックを受けた溥儀が読者のウケを狙って話を盛るので「溥儀」というキャラクターがブレまくるのでした。

 

李淑賢との結婚をよりドラマチックにするため、皇帝時代の妻たちは空気のように扱われました。西洋かぶれの溥儀がハイカラな妻を持つこと憧れ、フランス租界育ちの婉容に電話をかけて自分と結婚するように説得したことなどはなかったことにされています。

 

平民になった溥儀が家庭を作ることは思想改造の総仕上げとして毛沢東が望んだことでした。期待に応えるマンの溥儀は旧社会のお嬢様ではなく看護師の女性を選び、模範的な共働き夫婦となりました。

 

自伝が完成すると溥儀自身が本のキャラ設定に合わせて行動するようになります。晩年はいい笑顔の写真が多いのですが、気の強い妻や弟夫婦との確執に頭を悩ませ、血尿を出しながら求められる役割を果たしていたのでした。

 

外国人記者などのお客様に会うのも溥儀の大切な仕事でした。なかには溥儀に質問するよりも一緒に記念写真を撮るほうに熱心な人もいたようです。

 

こうして中国を支配していた龍は共産党のパンダになりました。たまに龍が尻尾を出して毛沢東をイラッとさせることもあったようですが……。

文化大革命と闘病の日々

映画のラスト近く、紅衛兵に捕らえられ往来で晒し者にされている撫順戦犯管理所の所長を見た溥儀はたいへんなショックを受けます。

 

実際に管理所の所長は「国民が飢えている時に戦犯を優遇した」という理由で拘束されていますが、溥儀が目撃したのは特赦後の戦犯を指導監督していた統一戦線部長が迫害されている姿でした。

 

四旧(旧思想,旧文化,旧風俗,旧習慣)の打破をスローガンにした「文化大革命」では知識人や芸術家、溥儀たちのように特権階級に属していた人たちが紅衛兵の格好の標的になりました。革命とは名ばかりのこの暴動による犠牲者は2000万人ともいわれてます。

 

癌に侵されていた溥儀は入院が必要な状態になっていましたが、紅衛兵の襲撃を恐れた病院は溥儀の治療を放棄しました。

 

周恩来の力で治療が再開された時には手の施しようがないところまで癌が進行していました。最後はあまりの苦しみようで見ているのが辛かったと溥傑は言っています。

 

文革の最中の1967年10月17日、中国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀は61歳でこの世を去りました。火葬された唯一の皇帝として「火龍」と呼ばれることもあります。

 

『流転の王妃』には溥儀が日本のチキンラーメンを食べたがっていた、と書かれています。これが溥儀関連の話によく登場するチキンラーメン大好き説の原典です。

 

感傷的になってきたところに水を差すようですが、仲が良かったはずの妻は「漢奸だった溥儀と一緒の墓に入りたくない」と言ったとされ、別の墓に葬られました。

 

最後まで波乱万丈な人生でした。

龍を探して

中国史は三国志止まりの私は秦と清の違いもよくわからない状態からのスタート。寝ても覚めても溥儀のことばかり追いかけていたので今では友達のような気分です。

 

難しかったのは溥儀だけを追っていても溥儀にはたどり着けないことでした。清王朝だけでも始祖ヌルハチから全盛期を築いた康煕帝・雍正帝・乾隆帝、西太后の夫・咸豊帝、息子の同治帝、養子の光緒帝、親王などの皇族、宦官、役人について調べる必要がありました。

 

人物の数が多いうえに号(別名)で呼ばれていたり、皇族には諡、皇帝には廟号があったりするので途中で誰のことを言っているのかわからなくなり、迷っては戻るでなかなか進まないのです。(溥儀の話には昔の思想家や書家などの文化人、古典の引用も頻繁に出てきますがさすがにファスト知識で補うのは無理でした)。

 

政治関連では辛亥革命の孫文や袁世凱、めまぐるしく入れ替わる軍閥メンバー、関東軍に暗殺された張作霖、国民党軍の蒋介石、建国の父・毛沢東と周恩来などもある程度知らないと話についていけないのです。どこかで区切りをつけないと範囲も大陸並みに広くなってしまうのが悩ましいところです。

 

人としてどうかと思う溥儀ですが、生命力と悪運の強さは群を抜いていました。どんな状況になっても最後まで生きることに貪欲でした。

 

特赦を受けた時、溥儀はすでに53歳でした。53歳で平民としてゼロからのスタートです。昔のように自分を皇帝と呼ぶ人には「皇帝の溥儀は死んで新しい溥儀になりました」と言っていました。

 

彼を見ていると閉塞感の強い時代を生きる私たちに必要なものは我慢でも自己犠牲でもなく、ダサかろうとかっこ悪かろうと図々しく生きることなんじゃないかと思えてきます。

 

よく近所の子供たちと遊んでいるおじさんだったそうです。子供好きというより、溥儀自身がいくつになっても子供のような人でした。